お風呂を所望するご主人娘と奴隷さん(短編小説)

ご主人娘が「奴隷さんが入浴すること」を所望するわけですよ。前回よりも文字数かさんじゃってとてもショートショートとは言えないレベルになったので、短編小説ってことでここはひとつ。……ところで

な  ぜ  つ  づ  い  た

Twitterのフォロワーさんがお風呂で主従シチュとか言うのがいけないんだ……なんとかびねの人とギリシャ文字のラムダの次の人は罪深い。ありがとうございました。

ちなみにこんなお話もあったそうです。
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本編は追記展開からどうぞ。

以下人物紹介。


○ご主人娘
立派なお屋敷に住む大貴族の娘。16歳。いいお年頃なのだが、箱入り娘かのように育てられているために外の事はほとんど知らない。真っ白なものがお気に入り。奴隷さんのことを「アイツ」とか「あんた」とか呼んでいる。奴隷さんとは幼いころからの付き合いで、当時は奴隷の意味すら知らずに奴隷さんと接していたそうだ。お風呂に置いてるシャンプー類などは彼女が職人に頼んだオーダーメイド品。奴隷さんをつれるときにつける鎖はハイパーステンレス合金という頑丈で特別製な鎖らしい。

○奴隷さん
奴隷制が禁じられている時代の中、一部の貴族に対しては所持している奴隷の利用の許可が下りており、前述の大貴族の下で働いている男の子。小さい頃のご主人娘のことを「お嬢」と呼べと当人に言われたのが定着し、以後ずっとそう呼んでいる。隷属の証明となる首輪をつけることに何ら疑問も抱かない、だいぶ変わったヒト。ご主人娘の意向で、彼にだけ入浴の義務を与えられている。ちなみに首輪は特殊な加工を施した革製だとか。

○メイドさん
世話焼き大好きなメイドさん。ご主人娘は×××と呼んでいる。200歳とかいう人間にしてはおかしな年齢。生まれてからずっとメイドのなんたるやを叩きこまれたスゴウデだという噂も。
ご主人娘の話をよく聞いてくれたり、口裏を合わせてくれたりするとても心優しい人。ただしご主人娘限定だそうだ。

 随分と昔のことを思い出しながら、僕は雲で隠されてしまいそうな星々と月を眺めていた。この部屋には、小さな窓が付いているため外を見ることができる。昼間は普段この部屋に居ないため分からないが、夜はここから綺麗で貴重な景色が見ることが分かっている。
 今は恐らく夕飯の準備をしているのだろう。ほんの微かな香りだが、野菜を切った時の匂いと肉を火であぶった時の匂いを感じた。それが美味しい物か、不味い物かは僕には分からない。
 食べ物のことを考えていれば普通の人間は腹が空くらしいが、僕はそんなことが一切なかった。食事に対する意欲が無いのか、もともと腹が空きにくいのかよく分からないことだが、とにかく腹が空かないのだった。きっと僕は人間ではないのだろう。
 否、現に人間ではない。僕は人間という種族の名前を失ったモノだ。首元に付いている、僕の首に合せて造られたようにも思える首輪は、この時代において奴隷身分を証明する『隷属の首輪』と呼ばれるものだ。つまり僕は誰かの所有物で、人間ではない。
 ただこの生活が嫌かと問われたとき、僕は恐らくノーと言うだろう。物心がついたときには既に今の主人の奴隷だったし、それ以外の生活も知らない。裕福な生活をチラつかせてくる人間も居るが、裕福な生活など想像しても面白そうではなかった。奴隷として置かれている今が一番幸せに感じているのだ。
「お嬢……」
 それが僕の主人の名前だった。名前というよりは、呼び名だ。本来の奴隷ならご主人様とか、お嬢様なんて呼ぶのだろうけれど、僕はその当の主人からは「お嬢と呼びなさい! 命令よ!」などと言われてしまっているが為にこう呼んでいる。
 お嬢が奴隷をどう思っているのかは全く分からないが、どうやら他に見る奴隷よりは明らかに待遇が非常に良いようだ。以前は隷属の首輪を外してお使いを頼むと言われ金貨を渡されたこともあるし、たまには散歩に行くぞと立派なお屋敷の近くの山々を歩かされたこともある。
 所謂、コストというものがかかりすぎている気がしてならない。本来ならば小間使いでも雇った方が明らかにお金がかからないはずだ。
 こうしてコストなどというものを考えることができるのもお嬢が教養を身につけていないと駄目だといい、半ば無理やり教えてくれたものだ。それもお嬢自身が教えに来るのだから、きっと他の主人だったら馬鹿げているなどと吐き捨てるのだろう。
 ここまで良い思いをしてでも尚奴隷で有り続けることに、訳柄の一つも思いつかない。ただ、別の主人が全く同じようなことをしても僕は恐らくわざと刃向ったりして殺してもらうか、隙を見てどこかに逃げだしているに違いない。
 理由が見つからないまま15年もずっとこの首輪を捨てようと思ったことがない。捨てたいと望んでも捨てられる代物ではないが。ただ、15年もずっとこの生活を続けていて分かったことがあった。
「夜はつまらないです」
「つまらない夜で悪かったわね」
 気を抜いて空を眺めながらぽつりとこぼした独り言は、いつの間にか後ろにいる僕の主人にしっかりと聞こえてしまったようだ。
「お嬢ですか」
 振り向かずにそのまま会話を続けた。
「違う」
「お嬢じゃないですか」
「あんたがこっち向いて話をしていないのにどうやって私が分かるのよ」
「声がお嬢の声です。喋り方もお嬢のしゃべり方です」
 僕がそう言うと、しばらくお嬢が黙り込んでいるのが分かった。
「お嬢?」
 少し気になって振り返ったらお嬢は得意げな顔をしていた。
「振り向いたわね! あんたも未熟者ね!」
「……そうですね」
 適切な受け答えをしたと思ったが、大変シンプルな五文字の応答はどうやらお嬢は御不満だったようで、大きなため息をつきながら「あんたってそういう奴よね」などと、ぶつぶつと漏らしていた。
「それで、わざわざこのような時間にどうしてここへ来たのでしょうか」
 このまま放っておくとお嬢がここに来た理由すら忘れたまま小言を言いながら部屋に戻りそうな勢いだったので念のため声をかけた。お嬢がここに来た理由は分かっている。
「はっ……そ、そうね。どうしてと聞くけれど、分かってるでしょ? 風呂よ、風呂。さっさとそこ出なさいよ」
 そう言ってお嬢はやれやれと呟きながら僕の部屋の扉――もちろん、勿体ないほどに立派な鉄格子――の錠前を外した。そのあと首輪についている鎖と壁の鎖止めを外して、犬の散歩のような形になる具合に僕の首輪についた鎖を持って、
「ほら、行くわよ」
 と、部屋から出るように促した。
 先ほど述べたように僕の主人はとても変わり者なヒトで、奴隷の僕に風呂に入れと言う。当然主人の命令なので、僕はそれを拒むことはできない。
 お嬢の手には僕の首輪につながった鎖が握られているだけでなく、入浴道具と僕の着替えまである。どう考えても持つのが大変そうに見えるのだが、決してこの時は「持ちましょうか」などと言ってはいけない。以前同じことを発言したら、
「はあ? ぜんっぜん大変じゃないから!」
 という具合で、強く叱られたことがあるからだ。どう見ても大変そうに見えるのだが、お嬢の中の何かがそれを許さないらしい。
 そうこうしているうちに、浴室が見えてきた。
「ほら、鎖外してあげるから脱ぎなさい」
 と、お嬢は僕の首元の鎖を外した。
「あんた……今週はいつもより臭いわね」
「太陽が照りつける日が続いて、汗をかいたからでしょう」
「そういえば今週は暑かったわね……」
 数回ほどのレスポンスの会話が終わるころには服を脱ぎ終えて、風呂へ入る準備も整っていた。入浴道具を持って入ろうと扉に手をかけた時だった。
「それでは入ってきます」
「待ちなさい」
 風呂に入るにもかかわらず待てと言われたのは今まで無かったことだった。
「あんた洗うの下手くそだから今日は私が洗うわ」
「……お嬢が?」
「ええ。なにか不満でもあるのかしら」
 特にこれという不満もないが、まさか身体を洗うなどと言い出すとは思いもしなかった。
「いいえ」
「当然よね。じゃあ、あんた先に浴室入ってなさい」
「わかりました」
 お嬢が何を考えているか良く分からなかった。奴隷を風呂に入れるのも良く分からないが、まさか一緒に入ろうなどと言うとは。
「ほら、はやく入りなさい」
 そう言いながらお嬢は何の気なしに着ている衣服を脱ぎ始めた。
「ねー! ×××! ……メイド呼ぶから浴室入っててってば。 ×××いるー?」
 廊下を這うように響く声を背中に僕は扉を開けて脱衣所を後にした。浴室に入ってどうしろとは言われていないので、僕はドアを閉めてそのまま突っ立っていた。要は聞き耳を立てていたのだ。
「お父さまとお母さまには絶対言っちゃだめよ。アイツに何しでかすか分からないから。お着替えよろしくね!」
「かしこまりました」
 という会話の終わりが聞こえてきた。まあ、聞き耳を立ててこんな会話を盗み聞きしても別段面白味など無かったし、正直入るだけ入ってもう服を着て戻りたいくらいにしか思うことは無かった。
「ん、あんた先に湯船につかったりはしてないよね?」
 疑いの目を向けながらお嬢が扉を開けて入ってきた。そこにメイドは居なかった。
「していません。……ところでお嬢、質問をしたいのですが」
「いいわ、聞いてあげる」
「お嬢はなぜ裸なのですか? 人間は異性の目の前では裸体を晒さないと聞いています」
 薄着に着替えて僕を洗って満足したらそそくさと帰ることを想像していたが、どうやら間違っていたみたいだ。
「なんでって……お風呂入って湯船浸かるのに洋服は着ないでしょ。あんたってそれも分からないくらいおバカさんだったっけ?」
「もしかして、一緒に入るつもりですか?」
「質問は一つだけ認めたわ。理由はなんだっていいじゃない」
 お嬢は呆れたように言いながらも二つ目の質問には一応回答をしている。僕が望んだ答えは帰ってこなかったが。
「ほら、すわりなさい」
 お嬢はシャワーの前に立っている僕に向かって、小さな椅子をぽいと投げてきた。
 そこそこ重量感のあるものを軽々しく投げてくるのはお嬢のいつものクセみたいなもので、受け取る側のことを然程考慮しない。今まさに飛んできた椅子を受け取らずによけてしまえば、シャワーヘッドの近くにある鏡に当たって大惨事だっただろう。
「どうせあんたにお風呂行かせても烏の行水くらいで済ませてるんでしょ、全くもってナンセンスね。ちゃんとした洗い方をしっかりと教えてあげるから」
 お嬢は少し小柄な人なので、座っている僕の頭髪に手を伸ばそうと一杯一杯になっている。それでもなんとか手が届いたみたいで、髪を洗うために手にシャンプー液をとって僕の髪の毛をわさわさと綺麗な子猫を撫でるように、丁寧に洗い始めた。
「さっきは適当に言ったから改めて聞くけど、あんた髪の毛洗ってるよね?」
「髪の毛も身体も洗ってます」
「石鹸で?」
「……いいえ」
「まさか、お湯すら使ってないの!?」
「お水ですよ」
 蛇口をひねると水が出るので、その水で洗いはしたがお湯で洗ったことは無いし、お嬢の持っているシャンプー液も使ったことは無い。
「ちゃんと置いてあるのにどうして使わないのよー」
「お嬢はそれらを使えとは仰らなかったので」
 禁欲しているわけではないが、それらを使う必要は無いと判断したのでいつも使っていなかった。もしかしたら好きに使ってもよかったのかもしれないが、お嬢はそれらを使っていいとも言っていないので使おうとも思ったことは無かった。
「はあ……今度からシャンプーとお湯を使って湯船にちゃんと浸かってから出てくるようにしなさい」
「わかりました」
「さてと。そろそろ流すから、目をつむっておきなさい」
 言われた通り目を閉じてみると、真っ暗なのは当然なのだがいつもと違うせいもあって、とても変な感じがしていた。眠りこけて目を閉じること以外、目を長く閉じることは10秒もしたことがない。
「!?」
「わ、ちょっ、なによ!」
 お湯を上から被る感覚が初めてでかなり驚いてしまい、僕が椅子から転げ落ちた。
「お湯ですか……」
「な、なにをそんなに驚くのよ。ちゃんと座ってて。怖くないから」
「はい……」
 最初の感覚がとても驚くようなもの――あえて言うのであれば、暖かいミミズが大量に身体に向かって突進する感じ――であったために、温水のシャワーを浴びるのに怖気づいてしまった僕は目をつむるのと一緒に耳も抑えてお湯が入らないようにしていた。
 音がくぐもってとても不思議な世界にいる気がした。ざらざらという音を濁したように聞こえる水の音は、それが水だと感じさせずにもっと硬い固形物が当たっている感覚に陥らせてくる。
 こんな具合でいろいろ考えていると、ミミズ……じゃなくて、シャワーが止んだ。お嬢が持ってきたタオルで顔を拭かれたあと、ぽんぽんと優しく叩くように僕の長い髪の毛を挟んでふき取った。
「よし。どれどれ……」
 お嬢は髪の毛をそのまま自分の顔に持ってきて、スンスンと鼻を効かせた。
「うん、良い匂い。さすが私よね」
「素晴らしいです」
「あんたもそう思うでしょ?髪の毛まとめたら次は身体ね」
 お嬢は器用に僕の髪の毛をまとめ上げてタオルで包み、そのままタオルを頭に巻きつけた。
「私が居ないときでも身体もしっかり洗いなさいよ? シャンプーじゃなくてこっちのほうを使うのよ」
 タオルも巻かずに裸体で歩き回るのは人間としては恥ずかしい物だと聞いていたが、どうなのだろうか。……僕の主人も、もしかしたら人間ではないのか?
 まさかそんなことはあるまいとくだらない考えをやめ、お嬢に成すがままにされて身体を隅々まで擦られていく。擦った部分は泡がたっており、ずっと触られている感覚だった。これは別に驚きもしなかった。
「こんなものかしらね。流すから立ってちょうだい」
 またあのシャワーを浴びなければいけないのかと思うと、僕は少し嫌な顔をしたくなった。
「あんた本当に温水のシャワー苦手なのね。そんな怯えなくてもいいのに」
 嫌な顔をしたくなったのではなく、実際にしているに訂正だ。
 泡も流し終わったところで、このまま風呂を出ようとした時だった。
「ちょっと、あんた湯船に浸からないつもりなの!?」
 と、お嬢が僕を引き留めに来た。
「湯船には浸かるものなのですか?」
「とうぜ……そうよ。急ぎじゃないときは入ってから出ていくことが多いわね」
 当然という言葉を用いようとしなかったのは、本当に一から教えようという魂胆だからだろうか。
「多い、ですか」
「その日の気分でシャワーで済ませたりまた逆だったりって感じね。でも今日はあんたは私と入るんだから。」
「そう、ですか……」
「じゃあ今度はあんたが洗ってね」
 なるほどそう来たか。
「どのように洗えばよいのでしょう」
「どうって、さっき私があんたにやってあげたようにやればいいのよ。簡単だからやってみなさい」
 他者の身体に触れるということは過去何度かはあったが、主人であるお嬢の身体に触れるということは初めてだった。初めてではあるが、なにかの感情が芽生える訳でも無く、先刻のお嬢の丁寧な手の運びを思い出しながら髪の毛を洗い始めようとした。
「ああああーー!」
 お嬢の突然出てきた声に、なにかまずいことをしてしまっただろうかと思った。恐る恐る僕はお嬢に声をかけた。
「……どうかしましたか?」
「シャンプーハットを忘れていたのよ! 危ないところだった……」
 まだシャンプー液のついていない髪の毛を頭に上手にまとめ上げて、少し前から気になっていた奇妙な大き目の輪っかを手に取った。
「ちょっと待ってて」
 お嬢がその輪っかを頭にあてがった後、手際よく髪の毛を通しておでこのあたりまで深めに被った。浴室専用の風変りした帽子のようだ。
「さ、気を取り直して洗ってちょうだい。丁寧にたのむわよ」
 手からこぼれかかっていたシャンプー液を少し泡立てて、お嬢の髪の毛を僕の頭を洗った時のように洗い始めた。
「爪を立てないようにしてね」
「はい」
「うんうん、良い感じよ。気持ち良くて結構」
「そうですか」
「結構上手じゃない。……私の足元には及ばないけど!」
「ありがとうございます」
 褒め言葉を受け取りながら髪の毛を洗っていた時に気が付いたのだが、鏡越しに見るお嬢は僕と違って目をつむっていない。もう少しよく見ると、シャンプーハットという帽子が泡を受け止めて目に入らないようにしているようだった。
「なるほど、シャンプーハットは大変便利な帽子なのですか」
「よく気が付いたわね。これなら目を開けながら髪の毛を洗えるから安心よ。今日はあんたを見張っているけど」
 そんな便利な帽子を作る人は、どんな気持ちでこの帽子を作ったのだろうか。外でかぶる為ではない帽子を作る帽子職人がいたとしたら、こういう風変わりな帽子を作っているのだろう。……なぜか帽子屋の事を考えてしまった。泡を流さねば。
「お嬢、泡を流しますよ」
「ん、わかった。そのままシャワーで流してちょうだい」
「水にぬれてもその帽子は大丈夫ですか?」
「濡れるために作られた帽子だから安心して流しなさい」
「そうですか」
 遠慮なくお嬢の髪の泡を落すことにした。シャワーの蛇口をひねると、少しばかりぬるい水が出てきた後に先刻の暖かなミミズ……ではなく、水が出ていた。
「……ミミズではありませんね」
「えっ!? ミミズがいるの?」
「いえ、独り言でした。シャワーをかけますね」
 独り言を気にさせないようにさっとお湯をかけてお嬢の髪の毛の泡を落していく。シャンプーハットによってお湯が顔にかからないようになっており、小さな滝のように水が流れ落ちていた。
 しっかり泡を流し終わったら、お嬢の顔は濡れていないのでそのままにして、びしょびしょの髪の毛の水をタオルに染み込ませるようにして吸い取った。
「どう? いい匂いしてる?」
 頭髪の匂いを嗅げ、ということだろう。お嬢と同じように、洗いたてのお嬢の髪の毛に鼻を近づけてスンスンと音をさせながら嗅いでみた。
「林檎の実の香りがしますね」
「つまりいい匂いってことね。このシャンプーは職人に頼んで作ってもらったものよ。あんたも今度からはこれでちゃんと髪を洗いなさいよね」
「わかりました。……これをこうして、こうまとめ上げれば終わりですね」
「うん、上手よ。じゃあ次は体を洗ってちょうだい。背中だけやってくれればあとは自分でやるわ」
 背中に手は届きにくい。人間の体のつくりを考えれば、確かにそうだと納得がいった。
 お嬢が差し出してきた、頭に巻いたタオルとはまた違ったタオルのようなものに、身体を洗うための液を取った。少しタオルをぐいぐいと擦ってみると瞬く間に白い泡がもこもこと出てきた。そういうものがあるということは知っていたが、周知の通り実際に使ったことがなかった僕は物珍しそうにそれを見ていたらしく、
「泡で遊んでないで早く背中洗ってちょうだい」
 と、お嬢に軽く叱られた。うっかり気を抜いてしまった自分に反省をしなければいけない。お嬢の気を悪くさせてしまえば痛々しい仕置きがある……はずなのだから。主人の機嫌を損ねないようにするのは奴隷の身として当然だ。
「すみません。今洗います」
 急いで僕は背中を洗い流すことに取り組んだ。綺麗な姿勢で待っているお嬢の背中をタオルでこすると、どんどん泡だっていき、お嬢がそのまま泡になって消えてしまいそうなほどに感じてしまった。それは主人を失うということであって、なぜか僕は悲しく思ってしまい涙を流していた。
「え、え? どうしたのよ涙なんか流して……あんたらしくないわね」
「涙、でしょうか?」
「ばっちり見えてるわよ。大げさに言うと、まるで滝のようね。あーあ、折角あんたが洗ってくれてていい気分だったのに……なんだか調子狂うわね。あとは自分でやるから先に湯船に入ってなさい」
「……はい」
 この失敗はまずい。まず呼び出しを食らうことは間違いない。
 浴槽は綺麗な磨き石で作られており、これもきっと職人に頼んだものだろう。いつもシャワーを浴びて出てきていたから、目に留まる程度で気にはしていなかった。
 片足をそっと水面に載せると、熱い感触が自分の足を包んでいるように感じた。昼間の砂浜を裸足で歩くそれにかなり近いのだが、砂と水は違うもので、いま感じている感覚も似て非なるものだとすぐに考え改めた。
 危険は無いかと恐る恐る脚全体を滑り込ませてみる。もう片足はまだ湯に触れずにタイルに残っている形になっている。
 そんな滑稽な格好をしている僕の後ろには、身体を洗い終えたお嬢が立っていた。
「あんた何やってるのよ……」
「ゆ、湯船につから、つか……」
「まだ怖いのね……あんたに負けないものがやっと見つかった気がしたけど拍子抜けね」
「少し、少しだけ……」
「……んーほら、おいでって。手を離したりしないから。抱きついてて良いから来なさい」
 お湯が怖い、という訳ではなかったはずだった。怖いのは温水のシャワーだけ……否、やはりお湯が怖いのか?お嬢の髪の泡を落とすときに浴びせるときは何とも思わなかったのに。
 沸き立つお湯に対する恐怖は僕の思考力を著しく低下させていた。とにかく判ったのは、お湯が怖かったことなのだ。
「な、なにもそんなに力強くしがみつくほど怖がらなくても……」
 数少ない怖いものがまた増えた。お湯は僕にとって怖いものだ。
「……お湯は襲ってこないし、暖かい。ね、怖くないでしょ?」
「!」
 普段驚くことなどしないぼくは珍しく目を見開いた。お嬢が僕の頭を撫で始めたのだ。お嬢にしがみついたときに巻いたタオルが外れたのだろうか。否、それどころではない。奴隷の頭を撫でることなど……あるはずがない。
「いい子、いい子」
 ぽつりぽつりと言いながら、僕の頭を優しく撫でていた。無残に壊されて打ち捨てられたぬいぐるみを撫でていた時よりも優しい手触りに感じた。
 僕はお嬢の今の動作を邪魔してはいけない。僕はまさに人形のように固まってしまい、お嬢の腕にしがみついている力も同じくらいの強さを保ったままでいた。たった1分くらいの出来事だったのに、何時間にも感じるほどだった。嬉しいことなのか全く分からず、恐怖を覚えかねない程だ。
 主人であるお嬢は、恐怖する対象であることは忘れてはいけないのだ。それは奴隷という僕が揺るいで失ってはいけない感情だった。
「急に大人しくなったのね」
 その声にびくつかなかった僕は上出来だろう。
 恐怖していることに間違いはないのだが、だからと言ってこの主人から離れたい、逃げたいという意欲もわかなかった。
 為すがままの、意志を持っている人形としていたいとひしひしと実感した。奴隷が欲を持ったのだ。
「早い気もするけれど、でよっか」
「はい」
 お嬢の目は本当に優しい目をしていた。その時の僕はどんな目をしていただろうか。
 お嬢にとっては気に留めるほどでなく、僕にとっては大騒ぎな入浴は終わったのだ。


「そうだ、あんたこのまま私の部屋にきなさい」
 風呂の中で付けたままだった首輪についた水をふき取っている僕に告げられた言葉だった。お呼びだしだ。
「鎖つけた?」
「着けていません」
「自分で着けてくれればいいのにー」
 自分でそんなものを付けるほど危険な趣味に走ってはいない。つけろと言われればそうするが、そうでもない限りはお嬢が鎖をかけてくれるまで待っている。
「……はい。さて、今日は飛び切りのお仕置きをするつもりだから覚悟しなさい」
 やはり風呂場でやってしまったあの行いは間違いだったようだ。痛めつけられてから反省するしかない。お嬢の怒りがそれで覚めるのであればいいが――
「着いたわね。入りなさい」
「!?」
 考えている間にそんな時間が経過していたとは僕はつゆほどにも思わなかった。今日の思考は本当にどうかしているようだ。
「さてと。ちょっとここの椅子に座ってて。……小さいけれど」
「小さいですね」
「口に出さないで結構よ」
 椅子に縛り付けて叩かれるのか、それとも説教を長らく聞かされるのか。一体どんなお仕置きをされるのだろう。
「うん。いつ見ても綺麗ね……私のセンスは間違ってないわ。あんたはコレ、見覚えあるわね?」
「それは、櫛ですか?」
「そうそう。あんたと一緒に買いに行ったやつ。あんた髪の毛長いんだから、丁寧に髪の毛梳いておかないと駄目になっちゃうでしょ?」
「これがお仕置きですか」
「ええ、そうよ。飛び切りのサプライズなお仕置きってところね。あんたがちょっと昔に気を利かせたから、その褒美を仕置きとして与えるの。黙って座ってなさい」
「……」
 口をしっかりと結ぶように僕は黙り込んでいた。
 髪の毛に櫛を入れた時に音がそれほどしないようだった。軽く湿るくらいまで髪の毛は乾かしたはずだったが、それでも殆ど無音で流れるように櫛が入るということは、櫛の質が良くて滑りがいいということだろう。
「綺麗な髪の毛で羨ましいことこの上ないわ。ちゃんと大事にしなさい。絶対よ」
「……」
「今は黙らなくていいのよ!」
「わかりました」
 その時のお嬢は僕の長い髪の毛に櫛を入れながら、時折髪をまとめてお嬢の首に巻いて遊んだり、髪の毛に顔を突っ込んだりしていた。
「よし!もう良い感じね」
「ありがとうございます」
「そうだ、あんたこのまま私の部屋で寝ていきなさい」
 それはさすがに不味いのでは、という言葉が僕の顔に浮き出ていた様だ。
「朝一でお父さまに見つからないように戻れば問題ないわ。命令よ」
「……はい」
 僕はそのまま、お嬢の部屋で――もちろん床だが――寝ることになった。
 自身の髪の毛を梳き終えたお嬢も就寝の準備を整えて、部屋の明かりを消した。


 真っ暗な部屋の中に差し込む月明かりが眩しすぎたので、お嬢がカーテンを閉めて寝床に収まった時に、僕は物珍しく主人にものを頼んだ。
「……お嬢」
「なに?」
「その、もしよろしければですが」
「ふむ?」


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